2010.06.27 【青梅の山里】報告 | 東京ハイキング協会

2010.06.27 【青梅の山里】報告



実施日:平成22年6月27日(日)曇小雨
リーダー:佐野俊一郎
協力者:佐々木純子・本村力
参加者:13名 [男性2名・女性11]

【コース】
JR青梅駅→旧青梅街道→金剛寺(青梅)→稲葉屋住宅→青梅坂トンネル→聞修院→【青梅永山丘陵の自然を守る会制作、永山北部丘陵周辺図を頼りに山道の入る】虎柏神社→天寧寺(昼食12:00~12:40)【木村さんが住職から特別の計らいで本堂裏、庭園霞が池を拝観させて頂く、霞川の源流、この川は多摩川の近くにありながら入間川、荒川、東京湾に注ぐ】→(住民有志の努力により残された自然の中を通り)吹上しょうぶ園→勝沼城跡→解散13:45→師岡神社→JR東青梅駅

【由緒、案内説明は青梅市ホームページより】
青梅街道は新宿から青梅を経て、甲府の東で甲州街道と合流する道で、慶長11年(1606)江戸城修築の城壁用に、武州多摩郡の上成木村・北小曽木村(現青梅市)産出の石灰を運ぶ道として、大久保石見守長安によって開かれたと伝えられている。石灰搬送などの産業道路としてばかりでなく、御嶽山への参詣や、甲州裏街道として旅人が行き交う街道でもあった。


JR青梅で下車して改札口に通ずる地下道でいきなり懐かしい映画の看板のが迎えてくれる


JR青梅駅前                                                        出発


宿場時代をしのぶ古い造りの家が続く。


旧稲葉屋


金剛寺総門                                                         金剛寺山門

青梅ノ木,平安時代に活躍した平将門の伝説を持つ古木であるが、現在では完全に老衰期にある。 この梅は季節が過ぎても黄熟せず、落実まで青く、このため「青梅(あおうめ)」と称せられ、青梅市の名称もこれによって付けられたといい、いわば青梅市の象徴でもある。しかし、植物学的には突然変異であるとされている。


旧街道に立つ大師碑                                         豪商稲葉屋内部

同                                 蔵造りの説明書


稲葉家の歴史を語る梅の古木           青梅坂トンネル


聞修院                        不動堂

不動堂から池のある庭              多摩青梅七福神


聞修院山門黒沢蔵之助開基のお寺で、創建は天文年間(1532~1555年)という
事です。現在の本堂は1850年の再建。茅葺きの本堂は民家風の面持ちです。


里山に入る                    未整備な山道

里山の登る                     送電鉄塔から青梅市内


虎柏神社参道入口                昭和天皇即位記念灯籠


虎柏神正殿、江戸時代までは諏訪明神・諏訪宮と称し、現在でもお諏訪様と通称される。延喜式神名帳所載の多摩郡八座の一・虎柏神社の論社である。他の有力な論社に、調布市佐須町の虎狛神社〔こはくじんじゃ〕がある。

創建年代は不詳だが、崇神天皇の御代に神戸を寄進されたと伝えられる。延喜の制では小社に列し、祈年の官祭に預かったとされる。天慶3年(940)には六孫王・源経基〔みなもとのつねもと〕が諏訪大社より諏訪上下神を勧請した。

天正16年(1588)浅野長政が疫神(牛頭天王)を勧請した。これが八雲神社である。同18年(1590)長政は諏訪上下神を正殿、虎柏神を東の相殿、疫神を西の相殿に祀ったため、諏訪明神と呼ばれるようになった。小曽木郷の総社とされ、同19年(1591)には徳川氏より朱印地3石を寄進された。

明治3年(1870)、それまで脇殿に祀られていた虎柏神を正殿に遷し、諏訪上下神を東の相殿として、虎柏神社の旧称に復した。同6年(1873)郷社に列する。

現在の本殿は享保19年(1734)の再建で、三間社切妻造、ただし覆殿の中にあって、外からは見えない。
末社の高峯神社と稲荷神社は諏訪神と同じく源経基の勧請したもの。稲荷神社は、もとは西の相殿に祀られていたという。


天寧寺総門                     天寧寺俯瞰

天寧寺山門                     中雀門


霞が池、霞川の源流

東京都青梅市根ヶ布。曹洞宗梅華林高峯山天寧寺御本山は永平寺です。天寧寺は高峯山と号し、曹洞宗永平寺に属する関東地区の名刹である。

寺の創立は寺伝によれば、天慶年間(938~946)に平将門の開創であって、高峯寺と称し、顕密兼修道場であった。其後兵火に罹り、堂宇は焼き尽され廃寺となったが、文亀年間(一五〇一~〇四)、此地の領主将門の後胤三田弾正平政宗の帰依によって、曹洞宗甲斐国中山広厳院(寛正元年(一四六〇)古屋対馬守の開基)の末寺として伽藍が再興され(第一期)、開山第一世として、広厳院第二世一華文英和尚が招請された。

以来礼学盛んにして曹洞の宗風を宣揚し、参学の徒が四方より集まった。当時後柏原天皇は、当寺開山和尚に深く帰依し、永正三年(1506)、勅して紫衣ならび神獄通竜禅師の号を賜った。また、詔勅して天下の安寧と改称して山を高峯と号した。


吹上しょうぶ公園は、貴重な谷戸地(やとち)を保全するためにつくられました。

霞丘陵の一角、勝沼城跡歴史環境保全地域に囲まれた谷戸と、その周辺の環境資源を積極的に活かし、ハナショウブを主体とした公園として整備しています。


勝沼城跡古道                   勝沼城跡

勝沼城跡4                     城跡から青梅市街地

勝沼城の築城年代や築城者については不明であるが、室町時代、山内上杉氏に従った三田氏の居城として知られる。三田氏は平将門の末裔と称して、多摩川上流のこの地を代々治め、青梅・奥多摩・秩父地方に一大勢力を誇っていた。しかし室町時代末期の永禄年間、当主綱秀の時に小田原から進出してきた北条勢に抗しきれず、この勝沼城を放棄してここより更に西側にある山城、辛垣城に移ることになる。

のち、辛垣城も落とされ三田氏は滅亡するが、三田氏滅亡後は北条氏照の家臣、師岡山城守将影が入城しこの城を治める事になる。将影がこの城の改築を行ったことから、別名師岡城とも呼ばれるが、天正十八年(1590)の八王子城落城に際してこの城も落城、廃城となったとされる。


師岡神社光明寺の脇にある石段を登り、鳥居をくぐり抜けると、見えてくるのが師岡神社である。

室町時代にこの辺り一体を支配していた三田氏に代り、勝沼城の城主となった師岡氏を奉っている神社だ。その敷地の規模からみて、ともすれば見過ごされ兼ねないが、ここが立派に一つの神社であることは右脇にそびえ立つ二本のシイの木が教えてくれる。

案内版に「師岡神社のシイ」と記されたこの木々は、市の天然記念物に指定されていること以外詳細は不明だが、その幹の太さや根の張り方が歴史を物語っているようである。

樹のデータ 下:幹周5.7m 樹高約12m(1988年環境庁調査)
上:幹周4.3m(解説板による) 青梅市指定天然記念物


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