2025.11.08【赤穂義士引揚げの道No.1】報告 山川 美恵子
<赤穂義士討ち入りの様子>

<仮名手本忠臣蔵十一段目>
作者:初代歌川国貞門人。歌川 国貞 2代 (1823-1880)
別称・通称:豊国3世、一壽齋、梅蝶樓、
2025年11月8日(土) 天気:晴れ レベル②:ウォーキング
◆ 担 当 L : 山川 美恵子
◆ 協 力 L : 加藤 正彦
◆ 協 力 者 : 山川 和雄
◆ 現地協力者 : 新井 計一
◆ 投 稿 者 : 鈴木 榮男
◆ 参 加 者 : 48名(女性:33名、男性:15名)
◆ 所要時間 :3時間25分(食事、休憩等含む)
◆ 歩行距離 :7km
<コース>
両国公園(勝海舟生誕の地)10:25→本所松坂公園(吉良邸跡公園)10:33→前原伊助住居跡10:38一之橋10:56→11:15八名川公園(昼食)11:55→赤穂義士休息の地碑(ちくま味噌前)→12:57鉄砲洲稲荷神社13:12→浅野家上屋敷跡碑13:30→13:40築地本願寺13:50(解散)→築地駅
<両国公園(勝海舟生誕地碑)>

勝海舟は、文政6年(1823)1月30日、ここ本所亀沢の父小吉の実家である男谷家に生まれた。初めの名は義邦、幼名麟太郎。蘭学を修め、西洋の兵学、砲術、航海、測量法などを学び、安政7年(1860)1月、咸臨丸艦長として邦人の手による初の太平洋横断の快挙をなしとげた。慶応4年(1868)3月、高輪の薩摩藩邸において西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城に成功し、江戸市民を戦禍から救った。明治政府にも重用され、参謀兼海軍卿・元老院議官などになり伯爵となった。

元禄15年(1702年)12月 14日の深夜、堀部安兵衛宅に集結した浪士たちは準備を整え、吉良邸へ向かった。吉良邸近くで他の浪士たちと合流し、表門と裏門から討ち入ったのは寅の刻(午前3時ごろ)であったと思われる。「江戸城松の廊下での刃傷事件」から1年と9か月、ここに至る までの浪士の道のりは長く険しいものだった。

<赤穂義士休息の地碑>
・忠臣蔵で有名な赤穂浪士四十七士が討ち入りの後、乳熊屋(現在のちくま味噌)に立ち寄って休息を取った記念の碑。この休息後に高輪泉岳寺に四十七士は向かった。
時は元禄十五年十二月十四日。
・乳熊屋の初代作兵衛は風流の道を嗜み宝井其角に師事し、赤穂浪士の一人大高源吾とは俳諧の友であった。此の誼みで芽出度く本懐を遂げ泉岳寺への引上の途路彼等が永代橋に差し掛かるや一行を店に招じいれ、拾度上棟の日でもあったので甘酒粥を振る舞って労を撈ったのである。大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残して行った。これが大評判となり江戸の名所の一つになった。
<リーダーコメント>
或る時リーダー会で、街歩きLの引退が多く、減った分を山のLが年に1回でいいから山行をいれて欲しいと提案され、うかんだのが、この「赤穂義士の引き揚げ道」です。50年ぐらい前に義士祭当日にこういう催しがあると知ってから、いつか歩きたいと思っていた。結婚して改姓、討ち入りの合言葉の「山」「川」になり、ご縁も満更でもない。調べて歩き、また調べては歩くの繰り返しでコースは決まったが、会山行として纏めるまでは大変で、山とは違った問題があり、これまでの街歩きのLのご努力に感謝。当日は48人の方が勢揃い、奇しくも四十七士ならぬ、四十八士で「引き揚げ道」を辿ることとなった。主だった江東区・中央区の旧跡には立て看板が立ち、説明を読みながら当時を想像して歩く。義士たちは疲れた体で凍てついた夜明けの道を各自得意の武具を携え、戦った装束のまま整然と歩くさまは、異常だったに違いない、夜明けと共に動き出す江戸市民が、大勢見送ったのも納得できる。振り返れば東ハイの四十八士の列は長々と続き、みんな穏やかに歩いていた。山川美恵子






























2025/11/10 月曜日 at 10:05
山川リーダー ありがとうございました
忠臣蔵のファンで 何度もテレビ、映画を見ていました
「ゆかりの道」を思い出しながら歩きました
また 久しぶりにお会いする人何人かいて
名前が出ず 失礼してしまいました
山川リーダー・強力者の皆様 本当にありがとうございました
2025/11/10 月曜日 at 10:59
名文ありがとうございます。参加しませんでしたが良い企画ですね。街歩きいいです。熊は怖いし。今三船敏郎の大忠臣蔵を見ています。どのドラマでも吉良上野介の演技が憎々しくなっきて見るのをやめてしまいます。今回は我慢して通過しました。以上