2016.01.17 【大山街道No6】 報告 平山亨 | 東京ハイキング協会

2016.01.17 【大山街道No6】 報告 平山亨



平成28年1月17日(日)曇り
リーダー:平山亨
協力L:佐野俊一郎
協力者:佐々木純子
参加L:加藤栄一
参加者31名 男性5名 女性26名
コース:小田急線愛甲石田駅南口改札口前8時30分集合 愛甲石田駅8:33→子安神社→浄心寺→土橋割地橋→長龍寺→小金塚神社→船着場道標→歌川橋→道灌の墓→咳止地蔵→上粕屋神社→石倉橋バス停→小田急線伊勢原駅解散
石田交差点から分離する旧道があるが今回は、小金塚神社を通るコースをとる
神社仏閣の案内はhttp://www.tesshow.jp/参照
大山街道
江戸赤坂御門を起点としして、雨乞いで有名な大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)までの道です。東海道と甲州街道の間を向かう脇往還(五街道など本街道以外の支街道で、休泊機能の備わった道)として、「厚木街道」「矢倉往還」等とも呼ばれてきました。文九(1669)年には、溝口村、二子村が矢倉沢往還の宿として定められています。江戸時代中期には、庶民のブームとなった「大山詣り」の道として盛んに利用されるようになり、この頃から「大山道」「大山街道」として、有名になりました。江戸時後期には、駿河の茶、真綿、伊豆の椎茸、乾魚、秦野地方のたばこ等の物資を江戸に運ぶ大切な輸送路として利用され、これらを商う商人たちで大変栄えました、このように大山街道は多くの人々や物資が往來し、文化や情報が行き交い、様々な交流が生み出されてきた歴史ある街道です。
大山街道は途中いくつも脇道に入り込んだ、神社、仏閣、があり、道路拡幅のため庚申塔、道祖神、道路標識等が移設され、もしくは一箇所に集められています。街道あるきはこのような、い行ったり来たりして、古い歴史に会う旅でもあります。このブログもそのような考えで道案内的な形にしたいと報告しています。
小田急小田原線愛甲石田駅南口8:33           小田急線左を下る
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子安神社脇に道祖神                           子安神社8:41
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[石田の鎮守様 子安神社]
創建は明らかでないが、「新編相模風土記稿」には子安明神社として記されている。
徳川家康が近くで鷹狩りをした時、鷹がどこかへいってしまったが当社で祈願したことによりほどなく戻ってきたため、社領三石の御朱印を天正19年(1591)に賜ったと伝えられる。 寛保3年(1743)在銘の鴻鐘があった。 明治6年7月村社に列せられた。社殿は亜鉛鉄板葺覆殿で22.6坪。
境内に結びの木桜木の根が公孫樹の根を抱える 126 子安神社前を右に小田急線を踏切をわたり厚木大山街道出ると、前の信号を渡ると浄心寺門
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浄心寺本堂8:53                        浄心寺を厚木大山街道に出て右に
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伊勢原市の浄心寺は、天正2年(1574)に開山した浄土宗のお寺です。
石柱の立った入口から山門までの長い参道に、赤い可愛い頭巾をかぶった六地蔵があります。
また山門は茅葺屋根で、なんとも素朴な美しさを漂わせています。
石田信号を左に進み土橋割地橋を渡り
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石田交差点 下り坂右前方に大山 大山街道は斜めの道を左に入る。旧道は 左に土橋割地橋を渡る,谷戸入バス停急な上り坂道路沿いには、大きな農家や民家が点在する。
左に長龍寺看板から小田急踏切を渡り200m先右に長龍寺9:07
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長龍寺浄土真宗本願寺派(西本願寺)金林山 長龍寺
長龍寺本堂                 長龍寺前を右に墓地中に進むと、小金塚に建つ黄金神社9:12
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黄金神社拝殿                           黄金神社境内から西大磯方面
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小金塚=小田急線線の先にこんもり茂った台地の上
小金塚は直径45m高さ6mの円墳である、周溝からは、四世紀末ころの朝顔形埴輪が出土している。山頂の小金塚神社には金山彦命、金物鋳造の神様 大正十年昭和天皇が陸軍大演習の時立ち寄った“鶴駕行啓の所”の碑が建っている
鶴駕行啓之所                    小金塚を小田急線に下る
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小田急線高架を右に道標(船着場)9:20          街道を少し戻ると左に道祖神9:22
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道標に従い西に進むと白金地蔵9:32              JA成瀬支所販売所トイレ休憩
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白金地蔵尊縁起、子宝恵授諸病平癒・平穏安楽
万延元年(1860)この地の住人茂田半左衛門が子宝恵授を祈願しの菩提としてて建立祭祀し、子育て地蔵・諸病平癒・平穏安楽の菩薩として、地区信者の熱心な護持に依り、厚い信仰を集め、百三十有余年を経た。此の間、土地利用に係る事情で三回の移築をし、信者有志多数の浄財と協力により、平成七年(1995)八月二十四日寿経寺に移籍現在地に、永久鎮座されましたが平成八年(1996)九月二十二日台風十七号に依リ、倒壊したので信者有志多数の協力に依りここに再建した。平成八年(1996)十一月吉日
南西に進み歌川橋を渡る工事中の第二東名         成瀬歩道を横断
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第二東名下に道祖神と馬頭観音               上り坂上は柏尾大山通り交差点を下る
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渋田川手前に若宮神社                       神社裏に追いやられた庚申塔
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若宮橋を渡り右に土手を遡上                  300m程で道灌橋左に大慈寺9:59
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大慈寺                               道灌橋左を土手伝いに入ると
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臨済宗建長寺派寺院の大慈寺は、法雨山といいます。大慈寺は、覚智(貞治5年1366年卒)が鎌倉に開山、太田道灌(文明18年1486年卒)が中興開基となり、親戚の周巌(天文4年1535年卒)を中興開山として、当地へ移転の上再建したといいます。大慈寺には、太田道灌ゆかりの文化財が多数所蔵されています。
太田道灌は、扇谷上杉家の家宰。 文武両道に秀でた道灌は、扇谷上杉家をもり立てたが、1486(明18年)7月26日、主君上杉定正(扇谷上杉)の粕屋の館におびき出され謀殺された。 道灌が暗殺された理由については定かではないが、道灌が山内顕定(山ノ内上杉家)に謀反を企てたためという説もある。 大慈寺の首塚は、道灌の叔父で建長寺長老・周厳禅師が鎌倉から移して供養塔を建てたもの。『新編相模国風土記稿』によれば、墓の周囲は水田で三基の五輪塔があり、中央の塔が道灌の墓だという。
対岸に南蓮寺                         南蓮寺山門出て左に柏尾大山道に上る
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47 坂上を右に普済寺10:23       48 普済寺多宝塔越しに大山
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臨済宗建長寺派寺院の普済寺は、千秋山といいます。普済寺は、上杉寺月鑑明公が開基、節翁中勵(文正元年1466年卒)が開山となり創建、慶安元年寺領10石の御朱印状を拝領したといいます。江戸期には法徳庵(札所第三十番)、観音寺の二ヶ寺の塔頭を擁していました。
石造多宝塔は、天保(てんぽう)9年(1838)に、高部屋神社の神宮寺(じんぐうじ)第14代住職である文道玄宗(ぶんどうげんそう)により建てられました。文道禅師は江戸幕府の命を受け、蝦夷(えぞ)(現在の北海道)国泰寺(こくたいじ)の第5代住職として赴任し、7年の任期を勤め上げ、神宮寺に戻りこの石塔を建立しました。明治元年の神仏分離令により神宮寺が廃寺となり、石造多宝塔は地元の人々の手により普済寺に移設されました。
屋根の四隅には風鐸(ふうたく)を付けた痕があり、塔身をくり抜いた中には石造の釈迦如来坐像が置かれています。台座の正面には「多宝塔」と彫られ、台石の上段には銘文(めいぶん)が刻まれています。中・下段には「松前家諸士庶人一統名簿」が彫られており、多宝塔建立のために寄進した約700名の名前やクナシリや子モロ(根室)、箱舘(函館)など蝦夷地の様々な地名をみることができます。最上部の相輪は大正12年の関東大震災で破損し、九輪あったものが六輪になっています。http://www.tesshow.jp/
民家の塀脇に道祖神                     柏尾大山通り西に進む右に高部屋神社10:31
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境内に黄心樹(まがたま)1円硬貨の裏面             高部屋神社拝殿(茅葺)屋根
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高部屋神社神殿                    神殿脇に雨乞いの水神様
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高部屋神社(たかべやじんじゃ)は、糟屋庄百二十七ヶ村の総鎮守として崇敬され「糟屋八幡宮」と呼ばれていた。創立年代は不詳。鎌倉時代に糟屋庄の地頭で源頼朝の家人だった糟屋有季が、新たな社殿を造営し、1551年(天文20年) 、地頭渡邊石見守が社殿を再興している。1647(正保4年)に再建された本殿は、関東大震災で倒壊したが、1929年(昭和4年)に再建された。拝殿は1986年(慶応元年)に再建されたもの。
高部屋神社のある下糟屋では古くから日照りが続くと「雨乞い」が行われてきた。最後の雨乞いは昭和8年に行われたという。高部屋神社には、雨乞いに使われた面が残されている。 高部屋神社の銅鐘は、1386年(至徳3年)12月に河内守国宗が鋳造し、平秀憲によって奉納されたもので神奈川県の重要文化財。
国道246号は丸山城址を分断                  丸山城址に僧侶の墓
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隣に神官の墓                         仏閣後城跡公園
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丸山城址、古くから高部屋神社付近が糟屋氏の館跡とされてきたが、丸山城そのものは室町時代から戦国時代にかけて存在していた城と考えられるようになった。扇谷上杉氏の居館とされる場所が近くにあるが、はっきりそれと結論づける遺物は発見されておらず、丸山城のほうは規模こそ大きくないものの、重厚な土塁を今に伝えており、空堀も検出されていることから、扇谷上杉氏の重要な戦略拠点ではなかったかと思える。
神仏分離令による明治草創期に廃寺にされたためにこのようなことが起きた
丸山城址を西に下り東海大学したに庚申塔        街道は東海大学病院前を西に向かう
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11:46渋田川市米橋右に建つ咳止地蔵尊11:15 73
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渋田川に架かる「市米橋」のわずかばかり上流に、かつて「せきど橋」という木の橋が架かっていました。このあたりは、渋田川を堰止めて流れを変え、新田の開発を行ったところで、この「堰止め」が橋の名となり、いつしか病気の咳を止める「咳止め」となり、辻の地蔵尊が咳止めの仏さまと崇められるようになりました。この地蔵に願いをかけるときは、はじめに泥団子をこねて供え「咳が治ったときは本当の団子を作ってお供えします」とお祈りし、そして病気が治ったときにはお米の団子を持ってお参りしたとされています。
咳止地蔵尊前に集められた石仏                市米橋信号を右にヤマト運輸前を左に
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街道は果樹園の中畑道を大山に向かうと大工さんの作った案内板と廃材の五重塔
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看板と五重塔を作った大工さん三軒茶屋の説明
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県道63号を左に渡り果樹園中の大山街道に入ると、大工さんが廃材で造った五重塔 この付近三軒茶屋
廃材を使った五重塔を造った大工さんの家の前、三軒茶屋 ここは厚木方面からの大山道(青山道)と柏尾方面から来る大山道(戸田道)、田村通り大山道から分かれる日向道、平塚・伊勢原方面から来る津久井道などの交差するところで、多くの人が行き交う賑やかな場所でした。その為、ここに三軒のお茶屋があって、旅人はここでお茶を飲んで一服したと云われています。三軒茶屋の地名は今でも残っています。アド・おおやまみち
峰岸団地方面の中へ入り北西に
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峰岸団地手前を左に東名高速路、厚木18で潜る
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高速をくぐると千石堰用水脇に〆引道標         千石堰用水を上ると三所石橋供養塔を右に
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市光工業を左に洞昌院
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曹洞宗寺院の洞昌院は、蟠龍山公所寺といいます。洞昌院は、太田左衛門大夫持資入道道灌(法名洞昌院心圓道灌、文明18年卒)を開基として、崇旭(長禄二年卒)が開山となり、創建したといいます。天正19年寺領3石の御朱印状を拝領、近隣に多くの末寺を擁する中本寺格の寺院だったといいます。太田道灌は、軍学の大家で、江戸城・川越城・岩槻城を築城したことでも有名ですhttp://www.tesshow.jp/
洞昌院の縁起
太田道灌廟                        太田道灌廟前から左に上ると太田道灌霊地
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太田道灌の墓                            昼食11:50~12:20
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墓を出て上粕屋神社に七人塚                  上粕屋神社
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江戸城築城で有名な太田道灌が、主君上杉定正に「道灌謀反心あり」と疑われ、定正の糟屋館に招かれ、刺客によって暗殺されました。その時、上杉方の攻撃を一手に引き受けて討ち死にした道灌の家臣七人の墓で「七人塚」と伝えられています。この塚は上粕屋神社の境内の杉林の中に7つ並んでいましたが、明治の末に開墾するとき一つ残された伴頭のものと言われ、今でも七人塚と言われています。環境省・神奈川県
上粕屋神社前を西に道標?の名残今日のゴール石倉橋到着12:40
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上粕屋神社の創建年代は不詳ですが、天平年間(8世紀半ば)に大山寺を開山した良弁僧正が創建したとも、大同・弘仁年間(9世紀初頭)に日吉(山王)神を勧請したともいい、江戸時代には社領1石5斗の御朱印状を拝領していました。明治2年村社に列格、明治6年には字和田内鎮座の熊野神社((朱印高二石)と、字石倉上鎮座の白山社を合祀、上粕屋神社と改称したといい、昭和年間には、字峯岸鎮座の御嶽神社、字秋山鎮座の五霊神社を合祀したといいます。猫のあしあ
県道611号を小田急線伊勢原駅に向かう東名高速手前二の鳥居13:03
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東名高速道路をくぐる        毘沙門池
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神戸信号で国道246号左折伊勢原信号県道61号右折、一の鳥居まえ小田急線伊勢原駅解散13:46

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6回目で石倉橋まで到達しました。7回は下社まで登ります。雪、凍結の心配があります。対応できる準備で義参加下さい。平山亨


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