東京ハイキング協会 » 2018.07.22【鎌倉 山崎天神・岡村城址】佐野俊一郎報告

2018.07.22【鎌倉 山崎天神・岡村城址】佐野俊一郎報告



鎌倉 山崎天神・岡村城址
平成30年7月22日(日)晴猛暑
リーダー:佐野俊一郎
協力者:佐々木純子・平山亨参加費徴収
参加L:柴崎実・松木千恵子・小林妙子
参加者:18名 男性7名 女性11名
コース:JR大船駅9:05→湘南モノレール富士見駅9:22→山崎天神者9:35→江のし満石標9:56→富士塚10:16→湘南町屋駅(トイレ)10:30→洲崎古戦場跡碑→陣笠の泣10:43塔→天満宮11:00→泉光院11:05→町屋橋→武田薬品前→長福寺11:40→村岡城址11:48~12:29昼食→日枝神社12:33→二伝寺12:43→久成寺バス停12:53=大船駅解散13:15
JR大船駅9:05

湘南モノレールに沿って南に向かう          江の島・藤沢の進む

小袋谷跨線橋で横須賀線を跨ぐ           大船駅方面東海道線との別れ

小袋谷跨線橋からモノレール下に入る

モノレール富士見町9:22               天神下信号を右折

車に乗った祭のお囃子               数基の庚申塔を右に送り直進

左に民家の急坂を登る               天神への裏道

山崎天神への参道を合わせ9:35           山崎天神拝殿 日陰で休憩

北野神社は、山崎天神とも呼ばれ、暦応年間(1338~1341)、夢窓疎石が京都の北野天満宮を勧請したものと伝えられ、鎮座する山は「天神山」と呼ばれている。その後、13622年(貞治元年)、円覚寺塔頭黄梅院主によって再建され、村の鎮守となった。江戸時代には「洲崎神社」とも呼ばれていたという。(洲崎は現在の寺分・梶原・山崎・上町屋の古称)
祭神、菅原道真(すがわらのみちざね)素戔嗚命(すさのおのみこと)
社殿の右に宝篋印塔                境内に建つ碑

宝篋印塔1405年(応永12年)の銘がある宝篋印塔で、市の重要文化財に指定されている。宝積寺の僧教音によって建てられたといわれている。 四方に薬師如来(東方)、釈迦如来(南方)、阿弥陀如来(西方)、弥勒菩薩(北方)が浮彫りされている。
子供天神祭跡                    表参道を下る9:45

鳥居に下りる                     天神正面9:49

天神前を南に向かうとモノレールした        従是江のし満の石標9:56

北野神社を下り入り口から、右折していくとモノレールの下を横断して山崎の住宅地に入る、 モノレール下を横断 右に分岐する角に石標「従是江のし満」
寺分南西に登る                 寺分を上がると西の展望10:03

民家の間を右に入ると富士塚公園を送り左に菜園を登ると、塚の頂上に上がる。頂上にには三等三角点標石と、頭の欠けた石仏がある10:16

富士塚公園を左に送り下る           沼南町屋駅側のコンビニでトイレ借用10:30

左モノレール下を江の島方面に向かうと洲崎古戦場跡の碑10:43   泣き塔
碑文:此の辺り古の州崎郷に属す元弘三年(1333)五月新田義貞鎌倉攻の折 その武将堀口三郎貞満・大島讃岐守守之州崎口より攻む 鎌倉方は赤崎相模守守時を将として邀撃(ようげき:迎撃)し 戦闘六十数度 遂(つい)に敗れ守時以下九十余人自刃したる古戦場なり
説明
この辺りは、昔は州崎と言う地名でした。1333年5月に、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を攻め落そうと、武将の堀口貞満(さだみつ)と大島守之(もりゆき)が州崎口より攻め込んできました。一方鎌倉方は、赤崎守時(もりとき)を武将として迎え撃ちましたが、60回以上の合戦のすえ、ついに鎌倉側は敗れました。この時、守時はじめ90人以上が自殺したといいます。この辺りは、その戦場の跡であります。
295右富士塚小信号の右に旧国鉄大船工場跡の広大な土地、運動場や草地のそばに「陣笠の泣き塔」のある塚
塚の中には宝篋印塔が立つ10:43         富士塚小信号を北に行くと塚の裏側

陣笠の泣塔(なきとう)は、神奈川県鎌倉市寺分字上陣出424番(江戸時代においては相模国鎌倉郡寺分村陣出、幕藩体制下の相模国韮山代官所支配寺分村陣出)の、旧東日本旅客鉄道大船工場敷地脇に建つ、1基の宝篋印塔の通称。泣塔の建つ一角の地名を「陣出(じんで)」といい、その名を冠して「陣出の泣塔」とも呼ばれる。
上町屋の鎮守天満宮11:00               天満宮正面11:03

上町屋の氏神。天慶年間(938~947)上総介平良文が霊夢を受けて天神をこの地の鎮護として祀ったのがはじまり。 石造庚申塔(寛文十年 1670年)は市指定文化財
真っ直ぐに行く突き当りに泉光院11:05

鎌倉市上町屋にある泉光院は元青蓮寺の末寺で、開山は大法師季等和尚で寛永16年(1639年)の創建です。地蔵堂の石地蔵は「いぼとり地蔵」とも呼ばれており、薬師堂の薬師如来は、「町屋薬師」とも呼ばれているそうです。
六地蔵                          本堂

地蔵堂                      いぼ取地蔵

西に柏尾川に架かる町屋橋を渡る           柏尾川大船方面

JR東海道線に沿って西に向かうと地下道で潜る10分休憩  武田薬品

331 武田薬品を左に村岡東信号右に長福寺11:49

長福寺村岡3に建つ曹洞宗の寺で(曹洞宗)本尊は釈迦如来
境内

村岡城址公園昼食11:48~12:29            蒼穹の碑

石は語らず 蒼窮の丘 山なみ続く鎌倉の景 悠久の天地 幾星霜 江戸城に数百年 今 村岡城に座す 詩 広田三
忠魂碑               出発12:39

こゝ村岡の地は一千余年前鎮守府将軍相模守 村岡五郎平良文の居城の地であり、当時関東、東北の政治の中心で、ありました。 其の後、鎌倉幕府の成立玉縄城開城で武家屋敷が多くあり、地名も山之内庄村岡郷から村岡村となり、昭和十六年藤沢市に合併しました。 戦後経済の一大発展に伴いこの気候風土の良い環境に恵まれた田、畑、山林からなる丘綾を整地して、湘南の新しい理想郷にするため、関係者の協議が進められ、昭和四十一年三月、組合を発足して十年余の歳月を費やし工事を完成しましたので、記念に碑を建てました。
村岡城址を北に日枝神社12:33       境内に弁財天

[日枝神社略記]
鎮座地 藤沢市渡内五七〇番地 御祭神 大山咋命 村岡良文公
由緒 桓武天皇の孫、高望王の御子、村岡五郎太夫平良文公相模國の郷を賜られ、三浦・梶原・大庭・長尾・畠山・千葉・上総・土肥等関東八平氏の祖なり。天慶年中良文公邸宅を村岡村渡内に定むるに当り、宮山の地に日吉山王大権現を勧請し山神社と称へ守護神とせり。応永27年(1421年)福原左衛門平忠次社殿を現在の地に遷したるとき、良文公を合祀せり。また、慶長12年6月(1608年)福原孫十郎重種社殿を造営す。後年天保9年(1839年)地頭加藤三左衛門藤原明随・福原左兵太平高峯・村岡六蔵平良毅等により本社覆殿を再建せり。
日枝神社を東に坂を登ると二伝寺が建つ12:43  墓地に松平氏の墓宝篋印塔

二伝寺は、永正2年(1505年)、玉縄城の初代北条氏時の発願によって、鎌倉光明寺第九世正空によって開かれた浄土宗の寺。 本尊は阿弥陀如来。 この場所は戦国時代には「二伝寺砦」といわれ、玉縄城から尾根つづきであり、旧鎌倉街道に沿っていたことから、砦の役割を担うため寺が創建されたのだと伝えられている。
松平正次一族の墓
天正18年(1590年)、北条氏勝によって玉縄城が開城されると、玉縄領は松平甚右衛門正次が治めた。 正次は、のちに玉縄城主となる松平正綱の養父。元和5年(1619年)に玉縄城が廃された後も、松平一族がこの地を治めた。 右から正次、正次の内室、正吉、久次、正吉の子の宝篋印塔。
寺の許可を得て                  平良文・忠光・忠通の塚塚入り口

 
平良文は、坂東八平氏の祖。村岡城を居城とし村岡五郎と称していた。二伝寺の裏山山頂には、良文・忠通・忠光三代の塚がある。
忠光公塚                奥に良文公塚
 
左に忠道公塚              二伝寺山門12:55
 
寺の前の道を東に行くと行き止まりになる、その手前に右の下る石段があって下ると、藤沢から大船に通じる車道に出る。久成寺バス停に着くと、ちょうど大船行のバスが来たので酷暑を逃れて乗車、JR大船駅にて解散13:15


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