2025.12.06【赤穂義士引揚げの道No.2】報告 山川 美恵子
2025年11月6日(土) 天気:晴れ レベル②:ウォーキング
◆ 担 当 L : 山川 美恵子
◆ 協 力 L : 加藤 正彦
◆写真撮影: 鈴木裕子
◆ 協 力 者 : 山川 和雄
◆ 投 稿 者 : 鈴木 榮男
◆ 参 加 者 : 40名(男性:11名 女性:29名)
◆ 所要時間 :3時間50分(食事、休憩等含む)
<コース>
築地駅.築地本願寺中庭10:00→仙台藩上屋敷跡(現日本TV辺)10:39→奥州一ノ関藩田村右京太夫邸跡10:54→11:40芝公園12:20昼食→岡崎藩水野家三田屋敷跡12:40→御田神社13:00→高輪大木戸跡→肥後細川藩下屋敷・忠烈跡13:30→泉岳寺13:50(各自でお詣り)→泉岳寺駅

<日比谷神社>
慶長年間に江戸城の拡張に当たり、氏子とともに芝口(現在の東新橋)に移され、その後、東海道線の敷設、道路整備などにより現在地に移された。東海道新幹線ガードの向こう側にあるホテルヴィラフォンテーヌ汐留は、松平陸奥守上屋敷(仙台藩伊達家)があったところです。別名を「鯖稲荷」という。もともとは大塚山に在った頃、苦しむ旅人達に社務所を開放して無病息災を祈願を受けさせたところ霊験があったことから、「旅泊(さば)稲荷明神」と呼ばれていた。

大正元年創業。浅野内匠頭(浅野長矩)の預け先となりまた切腹の場ともなった田村右京大夫(田村建顕)の屋敷のあった場所に店を構える和菓子店である。名物の「切腹最中」は、赤穂事件(忠臣蔵)にゆかりのあるお菓子を考案したいと願って作られたが、店主はその家族からも周囲からも縁起の悪いネーミングについて反対されたという。

<浅野内匠頭終焉地>
(元禄十四年十二月十四日田村右京太夫屋敷跡にして自刃せしる所)
辞世の句「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
※現代文に訳すなら「風に吹かれ散っていく花も春を名残惜しいと思うが、もう二度と見ることのない春を名残惜しく思う私はどうすればいいのだろうか」といったところでしょうか。

<御田八幡神社>
和銅二年(709)東国鎮護の神として鎮祀され延喜式内稗田神社と伝えられる。何度かの遷座を経て寛永五年(1628)現在地に鎮座した。明治三十年御田八幡神社と改称。赤穂浪士の引き揚げの途中で、この御田八幡神社の前で、※高田郡兵衛が現れ、お祝いを述べたと言われています。しかし、高田郡兵衛は江戸急進派の一人でありながら、討ち入りから脱落したため、赤穂浪士一行は無視したそうです。※宝蔵院流高田派槍術開祖の高田吉次の孫と見られ、槍の達人と伝わる。

大石内蔵助の墓
<大石内蔵助の辞世の句>
「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」
「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人」
※現代文に訳すなら、一句目は「思いを晴らして死んでいくのは、何と楽しいことよ。 見上げる月に雲がひとつもかかってないように、我が心は澄み切っている。」、二句目は「仇討ちを終えた四十七士は主君とともに阿弥陀如来の待つ極楽へ旅立ちます。」
<リーダーコメント>
赤穂義士2回目は主に彼等が泉岳寺の着いた後の縁の地を訪ねながら、泉岳寺を目指します。義士達は12月14日(旧暦)の深夜に討ち入り、討入時の装具10㌔のまま、約13キロを歩いて15日9時頃迄には寺に着き内匠頭の墓前に報告。19:00頃大目付仙石伯耆守邸(現虎ノ門ヒルズ辺)へ負傷者と高齢者を除いて歩いて来た道を戻り20:00頃着。2時間程の取調べの後に各大名家への引渡が始まり、各大名邸着は16日午前2時頃。正に激動の2日間、先人の脚力恐るべしです。
このコースの全行程を一日で歩く機会があり参加しましたが、非常に疲れたため 2回に分けて計画しました。子供の時に視た大河ドラマの「赤穂浪士」がここに繋がり、下見や下調べを重ねるうちにより身近な「赤穂義士」になった気がします。素晴らしいイチョウの黄葉にも出逢え、街歩きもいいなと思いました。山川 美恵子



















