2010.04.25【唐沢山】報告 | 東京ハイキング協会

2010.04.25【唐沢山】報告



実施日:平成22年4月25日(日)天気晴
リーダー:佐野俊一郎
協力者:佐々木純子
参加リーダー:吉村知恵子
参加者:16名(男性3名 女性13名)

交通:行=東武浅草駅7:26発区間急行乗車(東武伊勢崎線準急1時間25分)館林駅9:04(東武佐野線30分)乗換9:09発=堀込駅着9:30
帰り=多田駅15:13発乗車(東武佐野線30分)館林駅→東武浅草駅

コース:堀米駅9:50→小ショウ神社(手書漢字で?)10:15→登山道入口→浅間神社10:35~
45→見晴小屋11:25~11:35→唐澤山神社12:10~12:50→京路戸峠14:00~14:10→多田駅
14:50解散


朝の挨拶


、ストレッチ体操                                                   出発


奈良淵町交差する16号                                      浅間山へ

登山口小ショウ神社                                                    浅間山への石段


急峻の参道                     岩の参道


浅間社由緒
浅間山山頂にある室のお宮
【浅間の火祭り】(山岳信仰、富士、浅間と火祭り)佐野市指定無形民族文化財
★奈良渕町の浅間山は富士信仰として親しまれ、民族としての「浅間お焚き上げ」が今も続いている。この祭りは、昭和63年9月に佐野市指定無形民族文化財に指定され、「栃木のまつり百選」にも選ばれている。
★750年前の出来事として富士山のお札が突然天からふってきたと言われ、それを祀ったのが浅間信仰の始まりとされている。そのころ藤原秀郷が唐澤山に城を築き『天慶3年(940年)』その一族がこの奈良淵地区に住居を構え、勢いを誇示するために、山頂で火を焚いたのが「火祭り」の起こりだと伝えられている。以後の人々は代々火を焚いて悪病除けをしてきた。
★火祭りは旧暦の5月晦日の晩から6月1日にかけて行われ、近在の人々によって賑わった。
奈良淵地区では、各家から五合づつ米を集め一斗分だけ残すとあとは唐沢三さんに奉納。浅間山頂には三角錐の形にやぐらを組み、その周囲に麦かやを盛り上げ「お焚き上げ」の準備をする。神主が祈祷をしやぐらに火がつけられると、若者たちが松明(たいまつ)に火を移し一散に駆け下りる。浅間山の尾根は火の川となり、天を焦がしたその火は、伝染病やヘビが家の中に入らないための呪いでもあった。
★火祭りは「浅間さんのお焚き上げ」と呼び、熱心な信者は浅間山のふもとに行屋を建て、湧き水で毎日水合離(みずごり)をとり、山頂で日の出を拝んだ。また大勢集まると火渡りの行も行った。
★江戸時代の浅間山信仰は厚く、祭りになると山内に露店が並び、夜通し賑わい、早朝にはご来光を拝んだ。(朝浅間)また、地元奈良淵や天明、犬伏の各露天商が既得権をめぐって争い、これを村役人が仲介し紛争を鎮めている。『天保3年(1842年)』
★奈良淵村にも、富士、浅間講(信者の団体)組織(事務局、天神町光明寺)され、村の世話人や役員の連名で寄付が集められている。
天明3年(1783年)に群馬県浅間山の爆発があり。安政2年(1855年)には江戸大地震が発生。
折りしもペリー提督が率いる4隻の黒船が伊豆の沖に表れ日本開国を迫る。地震や激動する社会の混沌たる時代だけに、山岳信仰への思いは一層広がった。
★現在の火祭りは、新暦7月第4土曜日に盛大に行われて、子供たちの健やかな成長を願う祭りとして継承され、真夏の伝統行事として親しまれている。
佐野市奈良淵町 奈良淵町祭典部


お焚場から佐野市内方面            見晴小屋への関東ふれあいの道

同右上                      見晴小屋


鏡岩   天狗岩物見櫓から岩舟町方面天狗岩:物見櫓のあったところ南城下の台地でで南面に出た岩がちょうど天狗の鼻の様であった。入り組んだ谷間も良く見える。


唐沢山荘                 ます形城門のあったところでくいちがいともいわれる


神橋に向かって


大炊井、築城のさい、厳島大明神に祈願をしその霊夢により掘ると水がこんこんとわき出たとの事である。今日まで水がかれたことはない


神橋四つ目掘:神橋の下の堀をいう。水のない(から掘)で当時はもっと深かったと思われる。なお神橋も当時は外敵にそなえ使われない時は引き上げてしまう曳き橋であった


本丸跡に建つ唐澤山神社藤原秀郷公が祀ってあり、こけむす石垣は当時のままである。


神社前にて


車井戸当時茶の湯に使用された井戸で、がんがん井戸ともいわれ、深さ25m余りあり龍宮迄つづくと言われている。


京路戸ハイキングコース             木の間越しの萌え出る山々

京路戸峠

避來矢山:公が百足を退治した時、龍神より贈られた鎧にその名を発しており。現在は唐澤山神社に功績のあった人々を祀る避來矢山霊廟が山頂にある。

唐沢山城跡案内より
『沿革』唐沢山は今より一千年の昔「むかで退治」の伝説や天慶の乱で平将門を滅ぼした藤原秀郷公の居城址で標高240mながら全山赤松におおわれ断崖と深い谷に囲まれた自然の要塞をなし、今なお当時をしのぶ遺跡が数多くあります。唐沢山神社の御祭神藤原秀郷公は幼時京都の近郊田原の郷に住んでいたので世に田原(俵)籐太秀郷ともいわれています。公の在世当時(平安朝の中頃)は都の朝廷では藤原氏が代々摂政や関白になって政治の実権をにぎっていましたが一族の間で政権争いがくりかえされ、そのために都の政治が乱れてくると地方の政治もゆるみ土着の豪族などが欲しいままに勢力をふるってくるようになり、時に公は延長5年(927年)に下野国(栃木県)の警察にあたる押領使という役に任じられ父祖伝来の此の地に参られ唐沢山に城を築いて善政を施していた。たまたまこの頃桓武天皇の流れをくむ平将門は父の残した領地のことから叔父の国香を殺し、しだいに勢力を増し天慶2年(939)頃から関東八ヶ国(上総、常陸、上野、下野、武蔵、相模、伊豆)の国府を順次攻めたて国府の長官を京に護送して関東地方の大部分を支配してしまい、自ら親王と称し、朝廷の命令を聞こうとせず、このように将門が地方で乱暴を働くのをみかねた朝廷では藤原忠文に征東大将軍の職を与え将門征伐に出発させ、その軍が到着する前に秀郷公は平貞盛と力を合わせて、将門の軍を下総国幸島において攻め滅ぼし、時に天慶3年2月14日にこれを天慶の乱と言います。公はこの功績により押領使から市の下野守(栃木県の長官)になり、さらに武蔵守の役も兼任するようになり従四位下へと進み、その手柄に対し朝廷より土地一功田が与えられました。その後代々子孫が城主となり約700年間、佐野修理太夫信吉公の代まで続き、徳川幕府初期、現在の城山公園の地に城を移し春日城とよばれました。この春日城がまだ完成しない1613年(慶長18年)大名としての佐野家は徳川氏の政策により断絶、城主佐野信吉は信州松本城にお預けとなりましたが、23年の後時の三代将軍家光から赦免の恩命に浴し、信吉の二人の子供は旗本として佐野家を再興することが出来ました。1867年(慶応3年)廃藩置県により士族となり明治を向え、ここに至り一族、旧臣、相謀って沢英社と東明会を組織して秀郷公の遺徳をしのび明治16年9月25日本丸跡に神社を創建して同年10月25日に秀郷公の御霊を奉斎し、以後永くこの地方の守護神として尊崇されております。
『伝説』【蜈蚣(むかで)退治】
秀郷公は幼時、京都近郊田原の里に住んでおられましたが、元服(ういこうぶりといって今の成人式あたるが20歳前に行うことが普通であった)の時、御父村雄公より三尺余りの立派な太刀を一振り賜り益々文武の道に励むようにさとされました。間もなくして、朝廷の命により下野国の押領使として関東に下る時、近江国瀬田の唐橋にさしかかったところ身のたけ60mもある大蛇が横になっていて、人々が大変こまっていました。しかし公は惟一人この背中を悠々と渡りました。その夜半宿に、この世のものとは思われぬ程美しい女性が公をたずねて参りました。その女性が「私は琵琶湖に住む龍女です。毎年、私は子を生みますが一人として満足に育ったものがおりません。それというのも琵琶湖のほとりにの三上山に住みついて、善良な人々を苦しめている大蜈蚣のせいであります。毎年、子供が生贄になるので育てられないのです。そこで、之を退治する武将をさがすために大蛇に変化しておりました。あなた様は日本一の武人と誉れの高いお方です。どうか、乱暴な大蜈蚣を退治していただきたくお願いに参ったしだいでございます」と、切々と訴えました。秀郷公は武勇に勝れいつくしみ深いお方であらせられましたので、この願いを快く引き受けて蜈蚣退治に出かけることになりました。公は父より頂いた刀と五人張りの重藤の弓と大矢三本を持ち、さきの女性を道案内に勇ましく三上山へ向かわれました。山も奥を極めんとするあたりまでくると、にわかに明るくなりました。見るとそこには、大蜈蚣がランランと目を光らせ、電光を放ち嵐のような風雨を吹かせあれくるっていました。すかさず公は、重籐の弓に矢をつがえてきりきりと絃を絞ると狙いを定めてパッと矢を放ちました。一本目二本目とも蜈蚣に当たってもはじき返されてしまい、残る一本の矢の先端に唾をつけて天地神明に祈り射ったところ見事蜈蚣に突きささり、二度三度大きないかつい体を震わしたかと思うと息が途絶えてしまいました。するとさきほどまでの嵐も天地雷鳴とともに治まり平和になりました。この御礼として龍神より黄金作りの大刀と鎧、使っても尽きない巻絹と米俵、をして大きな釣鐘を頂きました。鎧は避來矢の鎧と称し当神社に、大刀は伊勢神宮に、大釣鐘は三井寺にそれぞれ伝えられています。(三井寺物語より)
『お米で馬を洗った話』
戦国時代、唐澤山城は上杉謙信や北条氏政などに侵入を受け非常な危機に臨んでおりました。難攻不落を誇るこの城も唯一の弱点として山城の為、水不足になるおそれがありました。天正年間の戦にも水攻めが用いられたのです。城を包囲され要路を塞がれては水不足、食料不足に陥ることは必至です。しかし、敵方は、それを待っているのですから弱気は見せられません。そこで一計を策し斥候の目が光っているのを逆に利用して先ず大きな水桶に米を満たし、馬の背にかけて馬の体を洗う真似をして見せますと案の定敵の斥候は逐一水の豊富な旨を報告しましたので。一同大いに驚き士気を失い敗退したと言う事です。


これまでのコメント

  1. 木村孝子 :

    快晴に恵まれ、とても気持ちの良いハイキングをさせていただきました。主人もリーダーを始めサブの方々も、とても親しみがあり大変満足したみたいでした。帰りの電車久喜で乗り換えるときに、前の半蔵門線に乗ればよいのに、階段を登ってしまったので、一台後の電車になってしまいました。いろいろご馳走になりお礼も言えず大変失礼致しました。
    また参加したいと思います。よろしくお願い致します。

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