2019.12.22【羽田七福いなり】佐野俊一郎報告 | 東京ハイキング協会

2019.12.22【羽田七福いなり】佐野俊一郎報告



20191222羽田七福いなり

羽田七福いなり
令和元年12月22日(日)曇・近郊は雪
リーダー:佐野俊一郎
協力者:君塚加久子・秋山うた子・井上美江子
参加者:8名 男性1名 女性7名
集合:京急空港線穴守稲荷駅下り改札口午前10時
コース:京急空港線・穴守稲荷駅→穴守稲荷神社→白魚稲荷神社→五十間鼻→玉川弁財天→かもめ稲荷神社→羽田渡し跡→羽田神社→高山稲荷神社→重幸稲荷神社→妙法稲荷神社→東官守稲荷神社→京急空港線・糀谷駅
七福神めぐりは、年の初めに行うが、暮のお詣りも、一年の無事を感謝して、くる年の願いも亦、良いのかな。*七福稲荷各神社の御朱印の受付は 1月1~5日(9~15時)となっています。

京急空港線穴守稲荷駅8:55           駅前の狐

駅からの参道                                                       出発10:00

北参道                     氏子の餅つき

まばらな参詣客              南に急行入り口バス停東に白魚稲荷10:20

穴守稲荷神社 文化元年(西暦1804年)頃、鈴木新田(現在の空港内)開墾の際、沿岸の堤防がしばしば激浪のため大穴が生じ、被害を受けた。そこで稲荷大神を祀り御加護を願った所、以後風浪の害も無く霊験あらたかであった。

白魚稲荷神社《無病息災》武蔵国風土記に“漁士白魚を初めて得しときは、まず此の社に供ふる。故にかく云へり”と社名の起源が記されている。
例大祭の様子、多摩川の砂利砂採取が行われるようになった頃、この事業に従事する人たちの信仰を受け、社頭は大いに盛んであった。昔、この附近は藁葺き屋根が多く、漁師町特有の建込んだ家並みから、火事が起らないよう祈願する人も多く火伏せの神様としても信仰がある。その為か、この社は先の大戦の戦火を免れた
海老川の先に空港鳥居            海老川右岸の小公園

河口に五十間鼻                  五十間鼻無縁仏堂10:27

五十間鼻 五十間鼻無縁仏堂之坂公苑由来
創建年代は、不明でありますが、多摩川、又、関東大震災、先の第二次世界大戦の、昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が、漂着いたしました。
その方々を、お祀りしていると言われております。元は、多摩川河口よりの川の中に、角塔婆が一本立っているだけで有りましたが、初代、漁業組合長 故 伊東久義氏が管理し毎年のお盆には、盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養ををしていました。昭和五十三年護岸工事に伴い、現在地に移転しました。その後荒廃著しく、仲七町会、小峰守之氏 故 伊東米次郎氏 大東町会 故 伊東英雄氏 が、私財を持ち寄り復興いたしました。
又、平成十六年に、村石工業、羽田葬祭スミヤ 中山美装、中山機設、の協力により新たに、ブロック塀、角塔婆、桟橋、などを修理、増設、現在に至ります。
又、新年の水難祈願として、初日の出と共に、羽田本町日蓮宗 長照寺 住職 並びに信者の方々が水難者への供養を、毎年行っています。   堂主謹書
無縁仏堂を多摩川沿いに上ると玉川弁財天10:31

別格、羽田玉川弁財天《金運長寿》江戸名所図会に“羽田村の南も洲の先にあり、故に羽田弁財天と称せり。本尊は江の島本宮巌屋弁財天と同体にして、弘法大師の作なりといへり。宝永八年(西暦1711年)四月此地に遷し奉る云々”とある。社頭は、江戸新堀 小西九兵衛という酒問屋が全て造ったとされ、境内の一部に常夜灯があり、沖行く舟の目標であったと云う。また、当社にまつわる様々な版画も残されている。現在の羽田空港内(要島・鈴木新田)にあったが、昭和20年9月連合軍の強制立退命令により現在地に遷った。
北へ赤レンガ堤防                分岐の右を入ると鴎稲荷神社10:20

中町鴎(かもめ)稲荷神社《開運招福》この社に現存する石の鳥居には弘化2年(西暦1845年)建立と刻まれている所から、御鎮座はそれ以前となる。その昔、漁師たちが祈願すると鴎(かもめ)が飛来し大漁であったと云うことから、鴎を大漁の兆しとして崇め、以後「鴎稲荷」と呼ばれるようになった。大正13年頃 社屋を新築したが、昭和20年の戦災で焼失してしまった。その後町民により再建され、現在でも初午の夜は篝火を焚き太鼓を打ち鳴らしている。
羽田道を赤レンガ堤防に戻り
高速大師橋下に、                 羽田の渡し

多摩川八景、多摩川の河口           産業道路大師橋北に羽田神社11:02

羽田神社:羽田の氏神様として親しまれ、毎年7月末の例大祭には「ヨコタ」という独特の担ぎをする神輿に多くの観客が集まる。
羽田神社拝殿                拝殿左に富士塚

富士塚                    戻り正蔵院を北へ天祖神社11:10

天祖神社                   境内に立つ高山稲荷神社

中村 高山稲荷神社《学業成就》この辺りは中村と呼ばれ、社殿は名主 橋爪家(伊勢屋=本羽田3丁目辺り)の前にあったが、昭和4年の六郷土堤改修工事の際、現在地に移転された。移転前の社が飛騨高山より来た大工によって建築された事から、高山稲荷と呼ばれる様になったと云われている。戦前の初午祭には、芝居も催され大層の賑わいをみせた。この辺りの親達は初午の日に社前に小屋を作り、子供をお籠りさせてから寺小屋に入門させたと云う。
北へ本羽田1丁目に立つ重幸稲荷神社11:35

大野 重幸稲荷神社《開運長寿》昔、この辺り一帯は大野上田と呼ばれていた。度々の洪水に悩まされた村人達は、多摩川のほとり旧六郷土堤の際に、田畑の守護と五穀豊穣を祈って社を建立した。社前の道路は旧六郷土堤であり、現在の社の高さが旧堤防の高さであった。境内には樹令400年、幹まわり3.5メートルの楠の大木があったが、昭和20年4月の大空襲で焼失してしまった。社前の道路が一部膨らんでいる事が、大木のあったことと歴史の古さを物語っている。
羽田上田信号を西へ妙法稲荷神社11:43

上田 妙法稲荷神社《招福厄除》享和元年9月(1801年)大洪水の被害から立直る為、京都伏見大社の分霊を賜り、大松の下に社殿を建立し、鎮座されたものと伝へられている。この松の根元には白蛇が住み、神の使いと云われた事から、蛇稲荷とも呼ばれ信仰を集めていた。大正12年の関東大震災の折、大松も社殿も焼失したが、当地の有志により松の切株の上に八角堂が建立され、妙法稲荷と呼ばれ信仰を集めていた。昭和20年の戦災によって八角堂は焼失したが、昭和31年崇敬者並びに地元有志により現在の社殿が建立された。
出雲小を南に蒲田女子高を西に突き当たると右に荻中神社11:56  拝殿

境内に東官守稲荷神社
 
萩中 東官守稲荷神社《身体安全》東官守稲荷神社は、昔 萩中町7番地(旧番地)辺りにあり、敷地も広く東に向き、海に向かって建てられていた。当時この地に住む村人らは半農半漁の生活をしていたので、海における仕事の安全を祈る守護神として、村人達の信仰を集めていた。 大正6年の風水害により社は被害を受けたが、萩中神社再建の際、萩中神社の境内に移された。しかし、また昭和20年4月、戦災の為焼失してしまったが、町民の努力により再建された
京急空港線糀谷解散12:30


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